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京都_25 三十三間堂から泉湧寺まで
 方広寺から、三十三間堂に移る。これまで、京都に入ってから、ずっとお寺の建物や庭にしか目がいってなかったが、金箔の、千手観音立像・・・所狭しと並べられている千一体の仏像を前にすると、さすがに圧倒されるのものがある。千一体の仏像のほかに、中央上段には、千手観音座像。さらには、護法神像、風神・雷神像などがある。
 千手観音像の穏やかな表情も心和ませてくれる暖かさがあるが、風神・雷神像の力強い造形に目がいく。
 妙法寺、智積院とまわって、東福寺へ向かうため、東大路を南下する。途中、左手に山門が見えたため、泉湧寺に立ち寄ることにした。ここの山門、やや小振りで、本堂もすぐそこかなと思わせるものがあったが、行けども行けども、本堂にたどり着かない。上りの坂道を暫く歩いて、やっと、泉湧寺大門が見えた。登り詰めた坂道をやや下って、本堂に至る。
 皇室の帰依が深く格式の高いお寺らしいが、訪ねる人も少なく、当たりに人影もない。それだけ、静寂が身を包んで、観光公害に毒されない、宗教空間の味わいが身を包む。本来、お寺とはこんなふうに、俗界から隔離された空間なのだろうと思う。
 静かだ。

智積院 智積院
 本文では寺名だけでしたが、庭は美しかったです

泉湧寺 泉湧寺
 山門から見下ろし、両側から緑に誘導され、その視線の先にある本堂の姿は、他では見られない。白砂利の広々とした空間が、池に浮かぶかのように本堂を見せる。


【関連リンク】 
WEB Town 京都  
タウンナビ京都  
| 臥牛蝦夷日記 | 19:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都_25 方広寺にて思うこと
 清水から五条坂下り、五条通を西に向かって大和大路(極細い通りなのだが大和大路である。)を南に向かって、方広寺に至る。
 大阪冬・夏の陣の発端となった鐘を見たかった。
 本能寺の変を契機に天下を治めた豊臣秀吉、しかし、その道はまだ半ばで、絶対的権力を手中にしてはいなかった。秀吉没後に、関ヶ原の戦いを経て、権力は徳川家康に移る。
 その権力を盤石なものとするために、最後に徳川側が豊臣側に仕掛けた無理難題がこの鐘に刻まれた「国家安泰 君臣豊楽」の文字である。
 戦国時代は、明日はどうなるか分からない戦乱の中、各大名や家臣達の生き様が躍動して、歴史を物語的に見るには面白いことこの上ないのだが、常に勝者と敗者の姿がある。本当の意味で、戦乱に終止符を打ち、国家体制の確立を図ったのは、家康ということになるのだが、この鐘の銘文、家康(泰)を二つに分け、豊臣を君としているとの、まさに因縁としか言いようのないことで、豊臣家は滅亡させられた。
 歴史は、この鐘にまつわる出来事を伝えているが、今は静かに鐘楼の中にある。この鐘を見、銘文を眺めたら、何か感慨にふけるものがあるのかと思っていたが、そうか、これが、そうなのか・・・という感想しかない。
 江戸時代、いろいろあったのだろうが、とりあえず国内を戦渦に巻き込むような内乱もない300年間となる。そのためには、徹底的な勝者の絶対化が必要であることは、義経に対する頼朝の態度と実際の行動にも先例がある。徳川家安泰のためには、外様への弾圧など諸々あるのだが、それらの行為がお家安泰のためだけだったのか、あるいは天下国家の安泰を図るものだったのかは、判然としない。

方広寺 方広寺の鐘
| 臥牛蝦夷日記 | 19:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都_24 清水(きよみず)さん
 高い木立の間から、八坂の塔が見え隠れする小道を通り、二年坂、三年坂を登り詰めると清水(きよみず)さんの参道である。高校生のとき修学旅行で通った、狭い急な勾配の、両側にはびっしりとお土産屋さんが建ち並ぶ道を抜け、仁王門に至ると清水の三重の塔が眼前にある。
 ここをくぐり境内に入ると、さすがに早朝のことで人影もまばらだ。朝早く訪れた甲斐があって、期待した静閑さを味わうことが出来る。坂道を急いで登ってきたせいか、春の日差しが空気を暖め始めたせいか、まだ、朝も早い時刻なのに汗ばむほどである。コーラを一口飲んで、一息つく。
 修学旅行で訪れた季節は同じ「春」であったが、4月に入った頃で、舞台の下にある桜が咲き始めていたが、まだ桜をめでるには少し時期が早い。
 舞台のある本堂から谷を隔てた対面にある子安塔あたりまで足をのばす。ここから眺める清水の全体の姿も美しい。深い谷を刻む山裾の稜線が伸びた先に、本堂、三重の塔がある。
 本堂に戻る途中、視線の先に舞台の下部が見える。何故、苦労して舞台を作らなければならなかったのか思うほど、壮大な骨組みである。しかし、清水はこの舞台があるからこそ、清水なのであるし、舞台そのものよりも、それを支える骨組みが美しいと思う。
【関連リンク】 
清水寺・公式HP

清水・三重塔三重塔


清水・子安塔から子安塔から


清水・舞台


清水・券
| 臥牛蝦夷日記 | 20:33 | comments(2) | trackbacks(0) |
京都_23 霊山観音まで
 けたたましい、騒音で6時30分にたたき起こされる。
 ♪おはよぉ〜、死んだまねは止めなさい−・・・
 この歌詞、確かに聴いた覚えはあるが、曲名までは思い出せない。
どうしても曲名が思い出せない。女性が唄ってたはず・・・。知ってる人いたら教えて。

前夜、YHのヘルパーから、「すばらしいテーマ曲が起床時にかかりますから、おそらく、どんな人でも起こされると思いますよ。」と暗示はあったのだが、力強くはあるものの、京の雅には似合わないぞ・・・。
 7:50には、YHを出た。団体客が押し寄せる前の閑静な清水が今朝のお目当てである。
 京阪電鉄の走る三条通を東に向かい、左手に昨日訪れた「平安神宮」が見える通りに出て、右手に折れる。
 山麓の閑散とした道は、昨日も通った道で、青蓮院、知恩院を左手に見ながら歩みを進める。清廉な空気が身を包み、立派な門構えの家の木立に朝露の光るのが見えて、美しい。静かな、煌めいた朝である。円山公園の中に入ると、昨日の賑わいが嘘のように静かだ。
 公園に隣接する「高台寺」は、通常、非公開のお寺。このあたりには、観光客を相手にしない有名な寺が結構ある。観光客の落としていく拝観料で、結構な財源を確保している寺もあると聞くが、歴史的遺産を守るための財源確保に観光客を受け入れるか、節操のない観光客から大切な歴史を守ろうとするのか、方法論はいろいろあろうと思う。
 
 高台寺の脇に建てられている霊山観音は、太平洋戦争戦没者の霊を弔うために建てられた高さ15mのコンクリート製の観音像である。おそらく、歴史の京都にコンクリート仏像?、という違和感を持つ人がいるだろうが、こうして京都のあちこちの寺を巡ってみると、きちんと言葉には出来ないものの、亡き人達を弔う心を形に変えるには、自然と仏教に関わりのある形を選ぶことになるのだろうとも思ったりする。特に化野念仏寺で数多くの石像や石塔のある光景に触れたことが、自分をこうした気持ちにさせているのではと思う。戦争とは無縁で暮らし、仏教に深く帰依している訳でもないが、古来多くの人たちが霊を弔うために観音像を作った気持ちも分からないではない。
 見上げると、限りなく抜けるような青空を背景に、暖かな春の日差しを浴びて観音像がある。

霊山観音霊山観音
京都にコンクリートはないだろうと思う一方で、弔う気持ちは素材じゃないのかとも思う。

【関連リンク】 
霊山観音 このHP丁寧で、しかも面白い(^o^)
| 臥牛蝦夷日記 | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都_22 東山巡り その8 知恩院
 みんな揃ったことだし、まだ東山巡りを終えるには日も高いし、ということで、さっき素通りしてきた「知恩院」、「青蓮院」などを見に行きましょうかということになる。
 知恩院はスケールの大きな寺で、境内が広いというわけではないのだが、建物が大きい。まず、三門。大きさでは日本一とか。この前で、ちょうど通りかかったアベックに頼んで、記念撮影。
 三門からまっすぐ入って、大きさが日本一という鐘に寄ってから、本堂に向かう。
 本堂の屋根の上には、ちょこんと瓦が二枚、説明されないと分からないくらい、ずっと高いところにあるのだが、なんでも、あまりの出来映えに不満を持った頭領が、わざわざ置いたものとか・・・。
 正面右側のひさしの内側には、”忘れ傘”と呼ばれる傘がある。これも、「↑」の案内はあるのだが、なかなか確認できない。首が痛くなるほどずっと上を見上げていて、やっと発見!
 
 お次は、青蓮院。庭が美しいと評判の場所なのだが、やっぱり、庭見疲れか、いまいち感動が低い。足早に拝観を終えて、近くの「農園」という名の喫茶店に入る。
「今日で、京都ともお別れだね」、「そうだね」などとベレー帽コンビが話す。
「こっちは、あと奈良とかまわって、その後東京の友達の下宿に転がり込んで、東京見物。」
「じゃ、今日の写真、東京で渡すね。着いたら、連絡して」
などという会話で、東京での再会を約して二人と別れる。

 ちょうど小雨が降り出してきた中を、東山YHに入る。今夜の同室は、10名。かくして、3月21日の夜が訪れる。

知恩院三門知恩院三門
ここで、記念撮影。その写真は、非公開です。(^o^)


知恩院・券知恩院・拝観券


青蓮院・庭園青蓮院・庭園
何を私は写したかったのだろう?


青蓮院・券青蓮院・拝観券
数ある寺院の拝観券の中でも、特筆すべきグレードでした。


1976/03/21 行程図1976/3/21 行程図
こんな風に歩いたのだな・・・。
| 臥牛蝦夷日記 | 19:27 | comments(2) | trackbacks(0) |
『炎立つ』
  高橋克彦著 講談社文庫

 著者の作品では、「写楽殺人事件」を読んだことがある。このときは、SFの書き手の延長線上にある作品と感じた。
 この『炎立つ』は、たまに時代小説も読んでみたくなり、NHK大河ドラマの原作であることは知っていたので手にしたものだが、読み始めてすぐに、異次元にの世界に入り込んでしまった。SF的要素はなかった。全5巻、あっという間に読み終えた。「臥牛蝦夷」と自らを名乗るようになったのも、この作品に触れたことがきっかけとなっている。

 物語は、今の東北地方、陸奥の豪族、安倍頼良(よりよし)の館で、息子貞任(さだとう)の婚儀がおこなわれているところから始まり、奥州藤原氏の祖、清衡がその地位を築くまでを、当時、朝廷側から蝦夷(えみし)と悔られ、日本史では「まつろわぬもの」=「反乱者」として扱われてきた人々の側から描いている。歴史上の出来事としては、前9年の役や後3年の役を扱っている。
 今の時代、地方に住んでいると、どうしても東京中心の中央集権的な部分というのが日々の生活で目に付いてしまうことや、他者の言うことに素直に従いたくないという、へそ曲がりな性格もあって、中央への対抗という視点は常に自分の中にある。こうした自分の思いがあるので、この物語に登場する人々(安倍頼良・貞任父子、藤原経清・清衡父子など)が、自らの地を中央に隷属することなく慈しんでゆきたいと願い、独立性の確保を求める姿には、深く感情移入してしまった。
 歴史は、単なる連合体としての蝦夷(当時の奥州人達は、自らを何と称したかは分からない。)が、中央集権という国家体制ができあがっている朝廷側の圧倒的数の力の前に屈し、この物語の結末で奥州の雄となった藤原氏も、独立性を維持できなかったことを伝えている。
 敗者側の歴史であるだけに、文献も少ないと思われるが、著者の、東北人としての誇りを語りたいという思いが、ひしひしと伝わり、全5巻を興奮しながら読み終えた。地元びいきもあるのだろうが、凄い本である。

| 異次元への旅 | 10:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都_21 東山巡り その7 八坂神社
 N・Yさんとの待ち合わせの時刻にはまだ間があるが、
「彼女も私と一緒で話したがり屋だから、一人だと寂しい思いしてるんじゃないかな。きっと、早く来てると思うよ。」
とK・Mさんが言うので、寄り道もせず、そのまま、八坂神社に向かう。今夜の宿のある東山3条を通り過ぎ、明日の拝観を予定していた青蓮院や知恩院を素通りして、朱塗りも派手な八坂神社に着いたのは、待ち合わせ時刻の小1時間も前である。
「いないね」
きっと、寂しくぽつんと八坂の門の前で待っている友達を想像していたのだろう、これまでの彼女の言動から来る勝手な印象なのかも知れないが、ちょっと不満そうな韻を含んで、K・Mさんが呟く。
 
 結局、良く目に付く、友達とおそろいの赤いベレー帽、黄色のセーター、濃いめの胸当ての付いたロングスカート(サロペットというのかね、イメージでいうと、いつも、サリーちゃんが着てるやつ)、黒のブーツといった、う〜ん、やっぱ、アンノン風?のN・Yさんが私たちの前に現れたのは、約束の時刻と1分もずれないときであった。
「Mちゃん、一緒になったんだ。」
「昨日に続いて、出会うとは思いませんでしたがね。それも、一人のKさんだったし、ちょっと以外でしたよ。」
「聞いた?じゃんけんで勝って、先に出たんだけど、最初は、せっかく一人旅気分だから追いつかれないようにと、ちょっと急いじゃって。」 
 K・Mさんが思ったとおり、1時には、ここにたどり着いていたらしい。
「早く着いたので、結構、暇してたよ。」
「一人で、寂しくなかった?」と、これはK・Mさん。
「うん。でも、途中で、声もかけられたりしたから。」
そりゃ、袖振り会わなくても、多少の縁。そばに、一人旅の方がいたら、優しく声をかけるのが、礼節を知った若者の当然の振る舞いではある。旅の恥はかきすてなどと、決して思ったわけではないはず・・・。もっとも、1時に着いたという彼女を置いてどっかいったというのも、優しさに欠けるというか、1時間ほど、待ち合わせにつき合った、こっちも、暇というか・・・。
 これで、一昨日のバス、昨日の大原、そして今日と、何故かしら3日連続して顔を合わせたメンバーがそろった。
| 臥牛蝦夷日記 | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都_20 東山巡り その6 平安神宮
 嵯峨野・天竜寺、洛北の龍安寺でも見かけたが、南禅寺のそばでも、「湯豆腐」の文字を掲げたお店がいくつかある。豆腐は好みの食材で、食指が動く。なんとなく京都に似合いそうな和の代表的料理だよなと思いながら、スーパーで絹ごしと表示されたツルッとした食感の豆腐と、田舎の知り合いのおばちゃんが作ってくれる、ざらざらした食感だが大豆の風味の強い豆腐の味を思い出す。京都のはどんなものであろうかと気にはかかるのだが、店先の料金表示を見て、昼食に千円プラスαをかけられるほど裕福でもなく、あきらめる。
 結局、昼食を摂ったのは、大きなガラス張りのこぢんまりとした小さなレストラン。
 「やっぱり、Yちゃん、追い越して来ちゃったのかなぁ〜。」と、K・Mが呟きながらガラス越しに外を眺める。
 それぞれの一人旅体験といいながら、友達がいないと不安なのだろうか。一緒になって外を眺めるが、行き交う人の中に、彼女の姿はない。

 今朝、銀閣寺をスタートしたときには、南禅寺が本日の行程の終着点の予定であった。ここから、時間があれば平安神宮などをまわって宿に入る予定であった。お昼までに、南禅寺をクリヤーしたので、平安神宮へと向かう。

 何日か前に火事にあったと報じられ、全焼?と案じていたのだが、平安神宮は、高校の修学旅行に訪れたときと同じ姿でそこにあった。なんとなく、名称からして平安時代からあった神社かなと思わせ、実際、そう思いこんでいたのだが、平安遷都千年を祝い、明治時代に建てられたものとガイドブックの説明にある。もっとも、建築様式は平安そのままのものらしく、朱と緑と白の、いわゆる極彩色である。どうも、けばけばしくて、京都らしくないのだが、これもこちらの思いこみとやらで、神社、仏閣は古来こうした色彩だったらしい・・・。
 後に、「ハレ」と「ケ」という用語を知る。「ケ」は日常で、「ハレ」は特別な日や場所のこと。神社、仏閣は、日常生活と異なる場なので、「ハレ」にあたる。「ハレ」は、本来、にぎにぎしいものらしい。そういえば、お祭りの時は、街が着飾るよね。
 ここで、K・Mさんは、今回、一緒に来られなかった友人へのおみやげといって、お守りを買い求め、記念写真を撮るような人であった。
| 臥牛蝦夷日記 | 20:27 | comments(4) | trackbacks(0) |
京都_19 東山巡り その5 南禅寺
 東山高校の脇を抜けて、南禅寺に至る。この寺の三門、歌舞伎では、かの石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と見得を切ったとされる場所で、大きな寺院には正面の潜り戸のようなもので、山門とも呼ばれ、必ずあるものだが、京都・奈良のなかでも登ることが許される、数少ない三門である。
 早速、100円をお払いさせていただき、登らせていただく。
 先ほど連れとなったのとは別の、たまたま先に拝観された見知らぬ若い女性のお尻が目の前を完全に塞いでしまうような、かなり急な階段を登り切る。京都の街が思ったほど広がっては見えないが、まあまあの眺め。鳩のものであろうか、あちこちに鳥の糞がこびりついていたりして、ちょっと汚い。
 南禅寺発祥の「南禅院」に向かう途中、煉瓦づくりの物体が現れる。京都の寺の境内といえば、純和風の景色ばかり見てきたものだから、いきなり洋風のものに出会うと驚く。南禅寺に隣接する裏山の2カ所を繋ぐように、境内にデンとある。とにかく、何であるかを確かめねばと、ちょうど一方の端に当たる裏山に小道が付いているので、登る。
 煉瓦の上は、水路になっていた。水路部分は、いかにも新しそうな鉄板で覆われていて、水かさはさほど深くないが流れが速く、結構な水量と思われる。
 世界史で習ったローマの水道橋をちっちゃくしたようなもんか・・・。とおもいながら、手持ちのガイドブックの地図に目をやると、先ほどの「哲学の道」脇の水路に繋がってるらしい。
 京都が舞台の2時間ドラマでは、よく犯人を問いつめる場所として登場しますよネェ〜。なかなか趣のある場所です。
 
 南禅院の庭もいわゆる美しいのだが、どうも、これだけあちこち鑑賞してまわっていると庭にも飽きてきたようで、強い感動が来ない。
南禅院庭園 date_1976_03  南禅院庭園:
そろそろ庭も見飽きてきたのか、いまいち感動が薄いのだが、やはり1級の庭である。
 煉瓦造りの水路橋の驚きに、印象が奪われたのかも知れない・・・。

【関連リンク】 
南禅寺オフィシャルサイト
琵琶湖疎水と南禅寺
| 臥牛蝦夷日記 | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都_18 東山巡り その4 永観堂
 疎水に架かる橋で、右手から見覚えのある赤いベレー帽に気づく。向こうもこちらに気付いたようだ。一昨日からこれで3度目の出会いとなったK・Mさんである。
 「今日は一人?」
 「そう。一人旅の気分もと思って、銀閣でじゃんけんして、私が負けて、10分遅れでスタートしたの。」
 「どこで待ち合わせ。」
 「3時に八坂神社の前。」
 赤いベレー帽に、赤のスタジアムジャンパー、薄い茶のコールテンのスカートに、足下は白のパンプス・・・旅のいでたちと言うよりは、今日は街に出るのでちょっと着飾ってみました風な、アンノン族っぽいコーディネート。一方、当方はというと、よれた茶のジャンパーにパンタロン(昨今は「ブーツカット」と言うらしい・・・。)のGパン、バッシュー(バスケットシューズ)、普段の生活よりはましな服装なのだが、K・Mさんと対比すると洗練されてない。進む方向も一緒だし、出会ったものはしょうがないと思ったのか、とりあえず歩みをそろえて歩き出す。
 「Yちゃん、いないかしらね。途中で一緒になれると良いのだけど。」
 10分先に歩き出したというN・Yさんの赤いベレー帽を探しては見るが、視界には入ってこない。そうこうするうちに、永観堂である。
 「どうする、追っかける?」
 「いえ、見ていきましょ。」
 
 とにかくデカイ。どこまで行っても、建物の中という感じである。回廊の脇には葉が3つに分かれた三鈷の松(写真掲載サイト)があったり、登りの長い回廊(臥竜廊)を上り詰めた先にある多宝塔からの京都市街地の眺めを堪能したり、1時間ほど寺院内をウロウロして、永観堂を後にする。

【関連リンク】 
永観堂オフィシャルサイト 
Temple Walk 永観堂
| 臥牛蝦夷日記 | 16:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
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