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飛鳥の写真 1976
鬼の俎(まないた)■鬼の俎(まないた)

亀石■亀石
 プライバシー保護のため、一部フォーカスをかけてます(^o^)

二面石(橘寺)二面石(橘寺)

石舞台_券■石舞台 入場券
 こうしてみると、モアイ像が仰向けに倒れているようにも見える・・・。

甘樫の丘から畝傍山を望む■甘樫の丘から畝傍山を望む

 今見ても、石の像の何となく日本的じゃないところが面白い。一説には、朝鮮の影響があるとのこと。
 遺跡的なものでしか歴史を偲ぶことのできないところに、こうして過去の人々の営みを見て取れるものがある。それが、日本的でないというところに、今感じている日本的なものが成立する以前の大和の姿が残されていると言えるのかも知れない。
 帰化人(今は、「渡来人」と表記するべきなのかな?)の強い影響があるのだと思ったりする。ちなみに、私は継体天皇、朝鮮渡来説は説得力があるのではないかな?と思っている。
 
| 臥牛蝦夷日記 | 20:21 | comments(3) | trackbacks(0) |
明日香 古の都には謎の石
 3月27日 土曜日 早朝に雨、のち晴 やや寒い。
 今日は明日香村を巡る。歴史の中では飛鳥時代、その中心地だが地名は明日香村。聖徳太子生誕の地とされているところだ。 
「飛鳥巡りにはレンタサイクルが良いよ」と、昨夜の宿泊先のYHで教えられらので、近鉄飛鳥駅に降り立ってすぐに、レンタサイクルを借りる。一日600円也。
 壁画の高松塚古墳→鬼の雪隠・俎(まないた)→亀石→橘寺(伝:聖徳太子生誕地)→川原寺跡→石舞台→酒船石とまわって、飛鳥寺に寄り、甘樫の丘に着く。細い道を登って、丘の上に立つ。登る途中では、一杯に茂った木々に遮られていた展望が一気に開かれる。北に天香具山、その奥に耳成山、やや左に畝傍山、大和三山と呼ばれる景色が見渡せる。一番高い畝傍山でも平地からは100m程度の高さしかない。孤高というほど迫力はなく、「山」と呼ぶよりは、こぢんまりとした「丘」のようなものなのだが、それでもこれが古より詠われてきた大和三山かと思うと、感慨深いものがある。
 飛鳥が平城京以前の大和朝廷の中心地であり、あの聖徳太子の生誕地なのだから、規模的に斑鳩にある法隆寺クラスの遺産が残っていてもおかしくはないのだが、由緒正しいものといえば、飛鳥寺に残る本尊くらいである。
 京都や奈良では、縁起やそこにまつわる様々な出来事が分からなくても、一目見て素人でも「美しい」とか「いいなぁ〜」と感じる寺院や神社の建物や庭園、仏像、絵画などがそこここにあったりして、創建当時のままではないにしても、歴史をビジュアルに語ってくれるものがあった。
 ここ飛鳥は、建物や庭園などビジュアルでわかりやすものはみんな遺構でしかなく、目の前にない。鬼の雪隠・俎(まないた)、亀石、石舞台、酒船石、橘寺にも二面石などいかにも曰くありげではあるが、歴史上の人物や出来事とダイレクトに結びつかない石の像や造形物が、スポットとしてあるのも影響しているのかも知れない。説明版にも具体的名説明がない。平城京でも感じたことなのだが、遺構では何も語りかけてくれない。
 明日香村を巡り終わり飛鳥駅に戻る。

 当時、飛鳥にまつわる歴史といえば、聖徳太子と十七条の憲法、大化改新という単語しか思い浮かばなかった。小墾田宮(おはりだのみや)や板蓋宮(いたぶきのみや)で、何が起こったのか知っていないと、古を偲ぶといった心にもならなかったのだろう。見てきたところの記録しか残っていない。
 今は、当時より少しだけいろいろなことを知って、この地の持つ深さを少しは理解したつもりだ。今、巡ると、きっと面白いだろうなぁ〜・・・。謎の石の造形物達も、歴史と無関係に、古代人の置き土産として楽しめるような気がする。
 ちなみに、小墾田宮は十七条の憲法の制定地、板蓋宮は、聖徳太子一族滅亡の地。

【関連リンク】 
天皇と宮 「飛鳥の扉」より
明日香村観光サイト 遊・悠・あすか
| 臥牛蝦夷日記 | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
明日香で悩む
 臥牛蝦夷日記、次なる地は「明日香」なのだが、記述に苦労している。
 今、「明日香」を歩くといろいろな想いをはせながら巡るのだろうが、当時の知識といえば、縄文→弥生→古墳→大化改新→平城京である。教科書(=受験)知識しかないはずだ。当時、どんな気持ちで歩いたのか・・・、もう少し時空を遡るための時間が必要かも知れない・・・。
 この地への今の想いと、当時の気持ちのギャップが大きすぎて、若き日の気持ちになり切れないでいる。
| 独白(ひとりごと) | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
奈良_09 生駒山に登る
 3月26日 金曜日 快晴、暖か
 2日前に、F君達と同宿になり意気投合しなければ、今日は斑鳩の里巡りの予定日であった。斑鳩を見終えて、生駒山の麓に宿を取る予定であった。同行者が増えた旅は、楽しい思い出をくれたので、不満があるわけではないが、見たいところはあらかた見てしまったし、旅の始まりからお寺さん巡りを続けていたので、何か違うものが見たくなった。
 同行者のS君と相談して、生駒山山頂を目指す。
 近鉄生駒駅から片道220円の券を買って、ケーブルカーに乗る。この、ケーブルカーという乗り物、初体験である。途中駅で乗り換えて、山頂に着く・・・。
 なんとなくだが、山頂展望台というと、函館山や藻岩山のイメージを持っていて、チョットした売店など階下にあって、屋上が展望台になっているようなコンクリート製の建物が山頂にぽつんとあるような情景をイメージしていたのだが、ここは・・・。まがいなく、遊園地である。思えば、ケーブルカーに乗り込むときから、気づいても良さそうなものであったが、ここまでしっかりした「遊園地」とは思っていなかった。
 男二人で遊具に乗り込む趣味を両者とも持ち合わせていなかったので、大阪方面を望む場所まで進む。山頂とはいえ、今日は暖かな日差しが一杯降り注いでいて、暖かい。大阪は春霞の向こうに、薄くぼんやりと眺めることができた。

【関連リンク】  
千光寺ユースの記事 
千光寺YHの場所
 宿泊先は、千光寺YH。泊まった記録があるので泊まったのだろうが、どうも記憶が蘇らない。こんな駅から離れた場所にあるのだから、そこに至るまでの道行きや、YHでは珍しい寺院そのものということでも、十分印象深いはずなのだが・・・。
| 臥牛蝦夷日記 | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
アクセス解析について
 このブログには、忍者ツールズのアクセス解析を設定しています。jugemのアクセス解析による訪問者がやけに多いので、チェックのために設定しました。
 結果は、やはり、ブログ記事投稿のために自らがアクセスしてる回数もjugemのアクセス解析ではカウントしていたようで、日に3から4アクセス程度でした。やっぱりそんなものなのだろうなと、思ったりしています。
 一方で、忍者ツールズでは、「ドメイン名」まで確認できるので、ここを見てくれている「お友達」も、『本当に覗いてくれてるのかぁ〜・・・』といったことも、推測の域ではありますが、チェックできます。(笑)
 でも、こうしたことが分かっちゃうというのも、ネットの世界では常識なのでしょうが、なんかイヤな感じもしますね・・・。
 もっとも、管理人が見て無くても、どこでもログは取られて、いろいろな解析はされてるのでしょうがネェ〜・・・。
| 独白(ひとりごと) | 20:41 | comments(2) | trackbacks(0) |
奈良_08 円成寺までたどり着く
 京都でも奈良でも、そこそこの距離を歩き続けてはきたが、基本的には平坦な道で、今日の峠道はさすがにつらい。町中でもなく自然散策の道程なので、自動販売機があるわけでもなく、喉の渇きも覚える。坂道を上り詰めた感じのところに、創業150年という「峠の茶屋」がある。ガイドブックにも記載されているので、そこまで頑張ればと来たわけだが、以外と大きなお店だ。
 喉の渇きを潤すと、これから先の行程は、歴史や自然を感じさせる歩行者専用の道から車も通る舗装道路となる。目指すのは、「円成寺」。峠の茶屋で出会った淡路島からの旅人Hさんたち2名といっしょ、都合4名での旅となる。
 最新の国土地理院の地図を眺めていたら、東海自然歩道とかの記載が、峠の茶屋までと、それより円成寺の近くにもある。記憶でしかないのだが、峠の茶屋以降は舗装道路をてくてく歩いたと思っているので、最近、整備でもされたのだろう・・・。
 円成寺は、奈良市内からも遠く、東大寺や観光スポットの賑わいはない。境内の外に取り残されたような庭園(イメージとしては遺構?)は、寺歴とともに相当に高名なものらしいのだが、いかんせん、この旅の開始以来、寺院建築や庭を見続けてきたせいで、感動が沸かない・・・。今日、ここにたどり着くまでに出会った「野仏」の大地とともにある姿に強く心を引かれたしまったせいかもしれない。
 バスに乗って、奈良市内の宿泊先に戻る。さすがに、今日は疲れた。

 円成寺公式HP
 庭園は昭和50,51年に発掘、整備されたとかで、やっぱり訪ねたのは、整備中の時だった。
| 臥牛蝦夷日記 | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
奈良_07 野仏の道〜柳生街道 
 新薬師寺から少し東に向かうと家並みも途切れて、清流沿いの山道になる。杉などの木立に囲まれた2間幅ほどの道には、表面が平らではないけれど割石が敷き詰められていて、木漏れ日が黒と白の模様を描き出す。この道は、今でこそ酔狂な旅人のみが通ろうとする道であるが、かつては、奈良と柳生の里を結ぶ主要な道筋であって、幾多の人たちが行き来していたという。
 道を登っていくと、「寝仏」と呼ばれる石仏がある。確かに、寝ているのだが、印象は、倒れたまま、という感じだ。南北朝時代に彫られたものらしいが、当初から横たわっていたわけではないようだ。
 「寝仏」からさらに進むと、道脇に「夕日観音」、「朝日観音」という露出した岩肌に彫り込まれた石仏がある。これまで見てきた仏像の多くは、瓦の屋根がある堂内に置かれ、雨風に晒されることもなく、あるものは金箔で飾られたりするようなものであったが、ここにあるのは、雨や風を受け、夏には突き刺すような日差しを浴び、冬には凍てつく大気に触れ、そして時としては、今日のように穏やかな温もりの中にいる仏像である。こうして、ずっと行き交う人たちを見守り続けてきたのかと、そんなことを感じずにはいられない。
 山道を登り続けていくと、「首切り地蔵」があって、さらに春日山、地獄谷の石窟がある。二つの石窟は大仏殿建立の石材を掘り出したときにつくられた人工の洞窟のようなものらしく、奥行きはさほどないが、壁に仏像が彫り込まれている。
 自然とともにある仏像達に、これまで幾多の著名な仏像を見ても感じなかった親しみが沸く。「寝仏」、「首切り地蔵」なども自然とともにあるのだが、これらは大地から切り離された石材を彫ったもの。「夕日」、「朝日」の両観音像(大日如来像らしいが、通称「観音」)もそうであったが、ここの仏達は、大地とともにある。誰かに守られて今日までその姿を維持してきたわけでもなく、刻まれ、姿を現したそのときから、あるがままに、そこにある。
 合掌するほどの信心を持ち合わせているわけではなく、ただぼんやりと眺めているだけだが、何かを見つけたようで、ここに来て良かったと心から思える自分に満足した。これらの仏像を彫りだした人たちの心の衝動にも想いは飛ぶ。

寝仏 寝仏


春日山石窟仏 春日山石窟仏:
 どちらの写真も風化が進んでる・・・。
 ここ柳生街道で、石仏の魅力に惹かれた。特に磨崖仏と呼ばれる存在には、強く惹かれる。その意味で、九州、臼杵の石仏群は私の憧れでもあるのだが、未だに訪問できていない。酸性雨の影響で風化が進んでいるとの話も見聞きし、気にはなるのだが・・・。

【関連リンク】 
奈良観光 丁寧な案内記事と、見やすい写真があります。
| 臥牛蝦夷日記 | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
奈良_06 奈良公園の鹿と遊ぶ
 3月25日、木曜日、快晴。
 この二日ほど天候に恵まれなかったが、今日は、快晴で、暖かい。昨日、斑鳩や西の京を一緒にまわったF君、T君と午前中に東大寺や興福寺をまわり、両君は昼から東京に帰るとのことで、午後からは、S君と二人で柳生街道を歩く予定。
 東大寺といえば、何をさておいても大仏殿である。大きいのである。ま、みんな知ってることだから、報告に力も入らないのだが、好みから言わせてもらうと、大仏さんよりは、大仏殿の前に建っている金銅製の灯籠の細工に興味をそそられる。「八角大燈籠」という国宝だそうな。
 宿泊先と東大寺の位置的関係から、大仏殿より後回しになってしまったが、南門を見る。ここは、やはり「運慶」、「快慶」の金剛力士像でしょう。逞しさあふれる身体の筋肉の質感が、これが木彫?という感じで伝わってきます。顔の表情も、いかにも怖そうで、正面から堂々とご挨拶するのもはばかられる。先に大仏さんにご挨拶してきたので、問題なく通してくれた。
 奈良公園では、鹿さんと一緒に記念撮影などして、ゆったりとした、暖かな春の一時を過ごす。
 つきなみだが、猿沢の池越しに興福寺の三重の塔を眺める場所で、記念撮影などしているうちに、昼近くとなった。1日半を一緒に過ごしたF君、T君とお別れのご挨拶をし、我々二人は、柳生街道に向かう。
 途中にある新薬師寺に参拝する。昨日、薬師寺を見てきたせいか、さっき大仏殿をみてきたせいか、そこそこ大きなお寺なのだけど、スケール感を感じない。ネーミングのせいで、薬師寺の二番煎じ?という感想もないわけではないが、寺名の「新」は「あたらしい」と云う意味でなく、霊験が「あらたかな」と云う意味だそうで、どうもややこしい・・・。
 奈良観光地図作製に手間取ってる。といいうか、奈良観光【こちらがリンク】の地図が良くできてるので、いまいち、気力が沸かない・・・。
| 臥牛蝦夷日記 | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
奈良_05 もう一つの「西の京」に歴史を見る・・・
 国道へ出て、私たちは、西大寺に向かうため、道路を北に進む。
 唐招提寺から西大寺まではかなりの道のりがある。バスに乗ればいいものを、何となく歩き出してしまった。それでも、途中の風景や町並みを4人で楽しみながら進む。

 目的地の西大寺は、静かさを通り越して、閑散としたものである。元来、一対となる東大寺とは比べるものがない様である。そう言えば、歴史の教科書に、東大寺や興福寺、奈良ではないが比叡山の僧兵という言葉は出てくるものの、西大寺の僧兵という言葉に出会ったことがない。「こんな寺にこそ歴史を見つめることが出来る」などと書いてあった書き物を読んだ記憶が呼び覚まされて、もしかしたら、当時から権力に近いところだけが繁栄し、そうでないとことろはなすがままの歴史をたどるものなのかも知れないなどと、変に分かったようなことを思いつく。由緒正しい寺で、そんな不遜な考えに浸るのであった。

 西大寺から、東に向かい、平城京跡を訪ねる。
 京都御所のように、過去から現代に続く建物が残っているわけでもなく、ただ広い土地に見た目にきれいな公園が広がり、遺構の説明板が所々にあったりする。柱跡の様を眺めながら、ここに華々しい色彩の建物でもあったのかと思いを巡らすのも、これまでの旅にはなかった新しい感覚である。

 平城京跡からは、バスに乗って、法華寺、続いて海竜王寺を拝観。西大寺もそんな感じだったが、ここの二つのお寺も、今は近所の子供達が遊んでいるような寺院で、法隆寺・薬師寺・唐招提寺と巡ってきただけに、そのあまりの違いに、なにかしら複雑な思いを抱くのではあるが、寺院が観光客でにぎわうことの方がむしろ異景なのであって、こうした様にある寺が真っ当なのかも知れないとも思ったりする。
 京都からの旅で、観光客のたむろする場所ばかりを見慣れたせいなのかも知れない。
【関連リンク】 
奈良観光 平城京跡
海竜王寺  ”Temple Walker"
法華寺  ”Temple Walker"
”Temple Walker"の長谷川猫さんのコメントを読んでいると、私の見た目だけの印象がいかに浅はかであるかを思い知らされます・・・・・。
| 臥牛蝦夷日記 | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
奈良_04 西の京「薬師寺と唐招提寺」
斑鳩での散策を終え、西の京、薬師寺、唐招提寺へと向かう。やや遠い(4キロ弱)ので、ここは、バス利用。
薬師寺は、法隆寺同様、高校時代以来の再訪。その時は金堂再建中とかで、有名な「月光・日光」の両菩薩像も仮住まいの堂に移されていて、境内もなんとなくごちゃごちゃした感じであった。
 創建以来の東塔は1300年の歴史を感じさせながら、美しくそこにあり、金堂も再建工事を終えて、「月光・日光」の両菩薩像も新しい金堂でゆったりされていたようだったが、どうも、ここの居心地が良くない。
 由緒正しき寺院で、観光客に人気も高く、私ごときが文句を付ける筋合いのものではないのだが、何か心に訴えかけてくれるものがないのである。本来あるべきはずの西塔がないせいなのか、再建された金堂が鉄筋コンクリート製ということなのか、理由は判然としないが。ま、好き嫌いの問題なんでしょう・・・。

 針葉樹の間をぬって、唐招提寺に向かう。ちょうど観光バスが到着し、団体客にまじって、案内を聞く。修学旅行の時は、面白いおばあちゃんがいて説明してくれたのだが、今日は見かけない。
 ここは、正面入口の南門をくぐってから、金堂を望む様が気持ちよい。南門から金堂へとまっすぐ続く白い道。その両側には植え込みの緑が、金堂へと視線を誘導してくれる。このシーンって、どこかで見たなぁ〜と感じ、「京都・泉湧寺」を思い出す。泉湧寺は、下って本堂にいたるが、ここは、平らな道。その分、エントランスの雰囲気は泉湧寺に軍配が上がるが、ここ唐招提寺は、道の正面に金堂がそびえ、エンタシスという、上下がくびれた丸柱が印象的なその金堂の姿が美しく、なんとも表現のしようがない。
 金堂の後背に抜けるような青空があるとBestなのだろうが、あいにくと雲がかかっている。
 
 唐招提寺の参拝を終え、その前から、さっき訪ねた薬師寺の東塔が見える。水田を前景として遠景にそびえる姿は印象深い。薬師寺の境内で感じた居心地の悪さは何だったのだろうと、しばし眺める。
薬師寺公式サイト
唐招提寺  ”Temple Walker"

唐招提寺1976 唐招提寺
 今は、復元工事中らしいが、当時は、こんな感じ。何でも、創建当初は今より屋根が低かったらしいことが復元工事の調査で分かったとか。・・・後日、この辺関連のリンク設定します。 
| 臥牛蝦夷日記 | 21:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
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