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松本_02
 今夜の宿は、浅間温泉の入り口にあるYH。旅も終わりに近づいてきたのだが、今夜の宿では、やたらと仲良しになる人たちが多い。夜のミーティングを終えても、しばらく話し込んでいたりした。金沢の女子高生5人組、東京の高卒男子3人、広島からの若者、このたびでたくさんの人たちと巡り会ってきたが、ここまで盛り上がった夜はなかった。

 一夜が明けて、昨夜知り合った方々共々、民芸館に向かう。
 何故、松本の地でここを訪ねることになったのか、その理由は定かではない。残っている記憶の中には、柳田国男の名が浮かぶのだが、確か高校時代に、随筆が国語の教科書にあったような記憶もあり、それと「民芸」が単に結びついているだけなのかもしれない。どうもはっきりしない。
 今、「松本民芸館」のHPを開いても、柳田国男の名が出てこないので、たぶん断片的な記憶同士が勝手に結びついているだけなのだろう。
■民芸館庭の石仏
 柳生街道以後、こうしたものに心惹かれるようになった。
  
 昼食後、急行アルプス4号乗車し、定刻18:11、新宿着。当初は、河口湖にも立ち寄る予定であったが、天候が芳しくなく、東京まで直行。
| 臥牛蝦夷日記 | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
松本
 松本は城下町である。松本城を見ずして、この街は語れない。松本駅から、全国どこにでもある地方の中心都市と同じようなビルが建ち並ぶ通りをテクテク歩いて、城下町らしい町並みにお目にかかることなく、松本城の黒門に到着した。
 いかにも、ここからは「お城であるぞ」と言ってるような門から城内に入りると、全体が黒塗り仕立ての天守閣がありました。
 ■ 松本城その1

 ■ 松本城その2
 入り口と反対側からの容姿
 お城の天守閣なるもの、人生で2回目となる。最初は、修学旅行で立ち寄った彦根城、そしてここが2度目となる。この旅で最初に訪れた金沢も城下町であるが、天守閣は現存せず、私たちが訪ねたのも、庭園の「兼六園」だけであった。
 当時は、金沢城跡に金沢大学があり、黒門から学生が出入りしていたが、最近の記事を読むと大学が移転し、菱櫓などが復元されているとのこと。
 何年か前に訪ねたのに、彦根城の記憶がいまいちだが、こちらの松本城の方が規模が大きいように思う。何もない、城址公園よりは天守閣が残っているのは貴重なのだろうが、広い城趾にぽつんと天守閣だけがあるというのも、何か寂しい感じがしないでもない・・・。
 早速、城内見学。 
急な階段を登って、最上階に。国宝の見物と言うよりは、気分は展望台である。アルプスの山々が春霞の向こうに見えた。
 ■ 天守閣最上階から
 かすかにアルプスの山並み・・・方向が違うだろって?・・・そうかもしれない・・・。

天守閣の・・・正確には、天守閣からの・・・見物を終え、入ってきたときとは反対側の市街地に向かう。明治初期に建設された小学校、「開智学校」を見学。洋風の意匠がひときわ目立つ建物ではある。お城の日本風とここの洋風。面白い街だ。
 ■ 開智学校
| 臥牛蝦夷日記 | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
木曽路_05 妻籠・その3 +α
妻籠の写真(おまけ)
■ 妻籠

■ 妻籠の今その1

■ 妻籠の今その2

■ 妻籠の今その3

「妻籠の今」の写真は、妻籠観光協会さんのご厚意により提供させていただいています。

THANKS:妻籠、馬籠峠越えの記事では、「南木曾町」、「妻籠観光協会」から、写真、説明図の提供をいただきました。ありがとうございます。

 私が妻籠を訪ねたのは「春」だったので、ここに掲載した「今の妻籠」のきれいな紅葉は見ていません。新緑の美しさも、すがすがしさも、しっかりと印象に残ってます。
 4月2日
 妻籠を後にして、南木曾駅発9:57の普通電車で、松本に向かう。
 一駅ごとに止まる山間の列車旅もなかなかおつなもので、木曽川を左に見ながら、さらに上流へと向かう。
 読書第2ダムを過ぎ、「くらもと」という駅を過ぎた。まもなく景勝地「寝覚ノ床」のそばを列車は通過するはずなのだが、地図で見る限りでは、一瞬で通り過ぎてしまいそう感じなので、進行方向左側の車窓に注意を払う。
 『花崗岩の岩盤が木曽川の水流によって浸食されてできた奇勝。花崗岩の白さと木曽川のエメラルドグリーンの淵が織りなす見事な眺め。方丈節理とポットホールは地質学上も貴重・・・。』
 ガイドブックに書いてあるから有名なところなのだろうが、どんな感じのところなのだろう・・・。
 と、身構えていたとき、車内放送が入る。「いつもご利用いただきありがとうございます。これから、列車はトンネルに入りますが、トンネルを抜けると、景勝地、寝覚ノ床が進行方向、左側に見えます。寝覚ノ床は、浦島太郎が目覚めた場所との・・・。」・・・親切なものだ。
 特急など、観光目的主体の列車ならともかく、普通列車でこうした観光案内を聞かせてくれるとは思わなかった。
 トンネルを抜ける、と、列車が速度をゆるめた。今にも止まりそうなほどの徐行運転である。「左側に、寝覚ノ床が見えてきました。」と再び車内放送。・・・これは・・・。やるもんだ。
 寝覚ノ床を過ぎると、列車は速度を上げた。中央線からの木曽川の眺めを楽しみながら、12:11松本着。

【関連リンク】
  BLACKMARKET.10 CaFe King of the crow(暗黒街十番地喫茶店・カラスオウ)
 いやぁ〜、面白い「木曽路の旅」です。必見!
| 臥牛蝦夷日記 | 10:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
木曽路_04 妻籠・その2
 旧街道筋を一通り歩き通したが、全体的に、生活感のないロケのセットのような印象を受ける。
 家並みのすべてが古くから残るものばかりではないはずで、風雪に耐えてきたという重みがどことなく感じられない建物もあったりする。人間がいい加減で、きっちとしてないものだから、しっかりと江戸時代風に統一された家並みに違和感を持つのかもしれない。
 人口減少が続く山村の集落をどうしたら守っていくことができるか、この地に住み続けるためには何をなせばいいのかを地域の人たちがしっかりと考えて、妻籠の保存計画が始まったと、旅の後で知った。
 訪ねたときの「ロケのセットみたい」という印象は印象として心に刻まれているが、振り返って「妻籠」で検索されるいくつかのホームページやブログを見ていると、私が訪ねたときと変わらない姿勢で、今も「まち」が守られていることを知る。そして、私が訪ねたときよりたくさんの人たちが「まち」を訪ねているようだ。
 そうした、記事を読んでいると、何故か、無性にうれしくなったりする。あれから、30年。私が印象として持つことになった一因と思われる「新しく、町並みに合わせて建てられた建物たち」も、木曽の風土にとけ込んでいるに違いない。
■30年前の妻籠

妻籠の今■今の妻籠
この写真のサイト

 今夜の宿は、「新井筒屋」という民宿。晩のおかずに『ほう葉味噌』をいただいた。『ほう』という木の葉を小さな七輪みたいなものに乗せ、その上に味噌を乗せて、下から炭火で暖めたもの。「ほう」は、大きくて厚く、見たことも聞いたこともない木の名である。ご飯に塩辛さが合って、美味しかった。
 食後、お土産物屋さんでも覗いてこようかと、日の暮れた妻籠を散策したが、どこもすでに店を閉めて、枡形の常夜灯だけが灯っていた。木曽路の夜は早い。
■ 新井筒屋の部屋から

■ 「枡形」(日中)
「枡形」の説明などは、こちらのサイトから
 妻籠観光協会

【関連リンク】
南木曾町ホームページ・フォトギャラリー
 ■雪の妻籠・・・なかなかいいです。写真で見る分には・・・。生活は大変なんだろうなぁ〜。
| 臥牛蝦夷日記 | 20:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
木曽路_03 妻籠・その1
 今日の予定であった、馬籠の峠越えで中山道を味わう旅は、午前中で済ませてしまった。
 このまま、またバスに乗って妻籠に戻り、宿場町鑑賞という手もあったが、さほど大きな集落でもないので、すぐに戻っても夕食まで時間をもてあましそう・・・ということで、中山道の石畳が残る落合に向かう。
 ■落合の石畳(疑惑付き)
 「石畳が残る落合に向かう。」と書いたものの、『落合の石畳にて』という記念写真があるだけで、十曲峠を越えた記憶もない。「昭和63年から木の葉に埋もれた石畳の道を整備した」との紹介記事もあり、記憶は怪しい・・・。
 ただ、馬籠から、中津川方面に歩を進めたのは間違いのない記憶である。
  石畳を見てから少し行くと、バス停も現れたりしたものだから、さすがに峠越えの疲れが出てきたということもあって、妻籠に向かうバスに乗ることにした。

 妻籠宿は、江戸時代である。旧街道筋の家々はすべてが昔風の作りとなっていて、当然、電柱などという文明開化を象徴するものなどはない。小さな頃から、道という道には、必ず電柱がたっていたものだから、何かしら物足りない感じがしないでもないが、狭い通りなのに空が広い。なんでも、電気はこの旧街道筋の反対側から引き込むようにしているとのことで、家並みが切れるところでは、裏道(と言っても、バス道路であったりするのだが・・・。)にある電柱がチッラっと見えたりする。もちろん、車なども通らない。徹底しているのだ。・・・路面が舗装されているのは、ご愛敬?
 ■妻籠の町並み

 ■中村邸
| 臥牛蝦夷日記 | 08:43 | comments(2) | trackbacks(0) |
妻籠で、つまずく・・・。
 臥牛蝦夷日記は、妻籠の描写に入るところなのだが、思い入れの多い(=記憶が鮮明で印象深い)ところは、書きたいことが多くて、なかなかまとまりきらない。
 写真データの入手なども交渉中で、・・・。
 そんなわけで、ちょっと一休みしてます。

 そうそう、この前の記事「甘樫の丘」についたトラックバックの「税理士」さんのブログ、なかなか、面白い(^o^)。歴史を税理士的に見る観点が新鮮です。
| 独白(ひとりごと) | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
甘樫の丘
 今朝(2005/11/14)、蘇我入鹿邸跡ともくされる遺構が発見されたのと報道があった(NHK)。
 明日香を訪ね歩いたときに甘樫の丘は訪ねていて、ガイドブックにも『ここに蘇我氏の邸宅があったと伝えられている。』との記載があった。緑に覆われた小高い丘に登ると、大和三山を見渡すロケーションが広がる。当時、権勢をふるっていた蘇我氏の邸宅跡に確かにふさわしい場所であると感じ、甘樫の丘全体が蘇我氏の邸宅跡で、その邸宅も丘全体を砦のようにした中世の館のイメージを抱いていた。
 だが、今朝の報道によると、発見された遺構は甘樫の丘の裾野の一画で、しかもその場所の地形が日本書紀の記述と符合し、どうやら本命筋のようである。
 今、旅日記を書き込んでいる『木曽路』には、当時の面影を伝える江戸時代のいくつかの宿場町が残り、『江戸時代の姿』を視覚的に認識させてくれるが、飛鳥時代ともなると現存する建物もなく、あるのは遺構のみなので、そこを訪ねてもまったくイメージがわかなかったりする。もっとも、今回の件に関しては日本書紀に場所を特定するような記述(「谷間にある宮」と呼ばれていたとの内容)があると言うことだから、事前の勉強不足とも言えるのだが・・・、甘樫の丘全体が邸宅跡というのが、勝手な思いこみだったらしい。
 明日香のような国家的歴史遺産の監督官庁である文化庁は、建築物については時代考証に基づいた細部の意匠までも復元することが必要で、安易な・・・こんなものだろう的な復元は認めていないと聞く。費用の問題もあるのだろうが、平城京も広大な敷地が確保されているにもかかわらず、町並みとしての復元がされていないのだから、時代がさかのぼる明日香ではなおさらだろう。妻籠のように、視覚的にわかりやすい明日香というのも見てみたい気もするが、著名な、しかも伝承のある蘇我氏邸宅の遺構ですら今の発見である。まだまだ、その姿を見せてくれるのは時間がかかるのだろう。
 薄ぼんやりとして、いろいろ想像をかき立てる古代というのもある意味で魅力的だが、歴史的事実の確定によってその時代のいろいろな知識を与えられるとやはり面白いと感じる。その積み重ねが私たちに古代の姿をもっとわかりやすくしてくれ、そしていつかは視覚的にも示してくれるのかもしれない。
 発掘という地道な研究が少しずつ古代を身近にしてくれている、そんな今朝の報道であった。
| 独白(ひとりごと) | 21:31 | comments(1) | trackbacks(1) |
木曽路_02 馬籠峠越え・その2
 「妻籠は、江戸時代の宿場町の町並みがしっかりと保存されているところで、全国の歴史的町並み保存の先駆的地区である。」と紹介されている。馬籠からバスで着いて、かつての中山道沿いにある今夜の宿に荷物を預けたので、当然のことながら、地区の雰囲気は味わったのだが、まずは、峠越えの様子から。
 宿に荷物を預け、さっきまで滞在していた馬籠を目指す。
 妻籠から馬籠峠までは、旧道の道。車が走る道路と交差しながらひたすら峠を目指す。といっても、比較的緩やかな上り坂で、木曽の緑を感じながら、のんびりと歩を進める。
 歩き出す前は、結構しんどい道のりになるかなと思ったりもしていたのだが、多少のの余力を残した段階で、馬籠峠を越えることができた。
 同じ旧街道の旅でも、奈良・柳生街道を歩いたときのように、そこかしこで、感動を感じることもなかった。心打たれる石仏のように、昔の人たちの営みを感じさせるものに出会えてないせいかもしれない。ただ、旧街道の道筋は車の通らない道として残っていたので、先代の人々が行き交ったであろう道を自分も歩いているのだという感慨はわいた。天気も気温も、周囲の緑も、絶好の条件であるし、例えば、飛鳥の旅のように、遺構を訪ね歩く旅とわりきれば、快適なハイキングではあった。
 馬籠峠を過ぎると、道は車と一緒の下り坂となる。程なく、馬籠宿に到着。昼食にそばと五平餅をほおばる。
馬籠〜妻籠周辺図■ 馬籠〜妻籠周辺図

馬籠峠越え・標高図■ 馬籠峠越え・標高図
妻籠宿観光協会のHPから図を借用しました。
 

【関連リンク】
 撮る旅・歩く旅 中山道の詳しい道筋の地図があります。

■ 馬籠から恵那山を望む

■ 島崎藤村一家の墓

■ 馬籠入り口
後ろが昨日の宿泊先「馬籠館」
| 臥牛蝦夷日記 | 10:27 | comments(1) | trackbacks(0) |
木曽路_02 馬籠峠越え・その1
 木曽路に入ったのは、「夜明け前」の世界を体験してみたかったからで、旅の当初から馬籠・妻籠間を歩いてみたい気分というのはあった。宿の手配もそのことを考慮に入れてはいた。
 「歩けるかな?」という気持ちもないわけではなかったが、旅を始めてから歩き詰めで脚に自信もできていたし、何より柳生街道での経験が、「このくらいなら」という気分にさせていた。といっても、長旅の荷物を抱えたまま峠越えをするほど、二人とも体力自慢ではないので、妻籠にバスで向かい、荷物を宿泊予定先に預けて、そこから馬籠に戻るという手を選んだ。
 4月1日の朝、妻籠に向かうバスに乗る。快晴。気分の良い峠越え体験になりそうな天気である。
 
 どうも、当時の記憶が定かではないのだが、バス路線は馬籠峠越えの道ではなく、木曽川沿いの国道経由だったと思う。当時から、峠越えのバス路線もあり、普通ならその路線を利用するはずなのだが、バスに乗って、「随分と遠いところに妻籠があるのだな、歩くのは大変かな?」と思った記憶と、実際に歩いた後で、「もう着いちゃった。」という記憶がある。だから、今、馬籠から妻籠周辺のブログ掲載用の地図を作製しながら、たぶん、国道沿いのバス路線を利用したのかな?などと思ったりする。
 このブログ、30年前の旅をずっと現在進行形で書き連ねてきた。実は、奈良の唐招提寺までは、旅の直後に綴った想い出記録が残っている。だが、柳生街道からは、写真と行程を記したメモだけを頼りに進めてきた。あることないこと、記した部分もあったかと思うが、それなりに記憶が呼び戻されて、若かった頃の気分で書き連ねることができたが、馬籠峠越えの部分になって、どうしても旅の記憶と実在が一致しなくなってきた。
 例えば、記憶の中にあるイメージでは、1時間ちょっとで妻籠から馬籠峠を越え、馬籠に抜けたと思っていたのだが、標高差400m、距離9kmを1時間ちょっとで終えることは、いくら二十歳の若者だったとしても、走ったわけではないので、無理というものだろう。 事実はどうだったのか・・・。
| 臥牛蝦夷日記 | 20:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
木曽路_01 馬籠
 3月31日(水) 快晴
垂水から新大阪に出て、新幹線で名古屋まで。名古屋からは中央本線に乗り換えて、中津川、さらにバスで、馬籠に向かう。280円也。
 馬籠は、島崎藤村の「夜明け前」の舞台。藤村の生地でもある。藤村記念館、藤村一家のお墓がある永昌寺などを回って、床につく。山里の夜は早い。
【カテゴリー『異次元への旅』「夜明け前」 同時掲載】
| 臥牛蝦夷日記 | 20:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
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