スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
松江 2
小泉八雲記念館・旧宅、八雲庵などと軒を並べる武家屋敷、この界隈は、松江でも観光スポットが建ち並ぶ場所でもある。今回、調べ直してみたら、屋敷前の道路の反対側は堀になっていて、倉敷のたたずまいにシチュウェーションは似ている。今は、私が訪ねたときより、整備されているようだ。
■ 武家屋敷

■ 武家屋敷2

■ 武家屋敷界隈

普門院を訪ねた後、珈琲館に立ち寄る。
同行のS君が珈琲(喫茶店)好きと言うこともあり、'76、'77の旅では、歩き回った疲れをいやすために数多くの喫茶店に入ったが、いまでも店のイメージが残っている喫茶店として倉敷の珈琲館と双璧の喫茶店である。
−入口から店内にはいると、フロアーは入口より一団低くなっていて、正面の窓越しには水面が見える。店内の水辺に建つ建物らしい雰囲気が出迎えてくれる。店の中央には、ガラスで囲まれた空間があって、なにやら機材が入っている。何かしらとガラス越しに覗いてみると、焙煎室だった。手打ちの実演をガラス窓越しに見せる蕎麦屋などもあるが、焙煎を見せるという趣向のコーヒー店は初めてだった。しかも、片隅ではなく、中央にデンとしつらえてあるのがなんとも興味深い。−
−と記憶をたどって書いてみたのだが、やはり30年前の記憶はいい加減なもので、水辺沿いに建つお店であることは間違いないものの、今回、再確認するまで、店の窓から見えていた水面が宍道湖とばかり思っていた。ネット地図で宍道湖の周りをウロウロしてみたのだが、どうやら30年前に私が訪れたのは、川沿いに建つ京店店のようだ。店の内部の描写も怪しいものだが、創業から35年という紹介記事を見つけたので、ここを訪ねたことだけは、間違いないようである。。

次に訪ねたのが、亀さんの像が有名な月照寺なのだが、何故か旅の記憶の写真は、不昧公の墓所。萩での藩侯の墓所の記憶がこの写真を撮らせたのだと思うのだが、こちらもなかなかシンプルで良い。
■ 月照寺

一畑電鉄・松江温泉駅に向かい、今夜の宿(古江YH−検索できなかったので、今は、なくなっているようだ。)がある古江駅(どうやら、駅名が変わったらしい・・・。ルイス・C・ティファニー庭園美術館前)まで一駅だけの乗車。

 松江は不思議と印象に残る街である。どこか取り立てて素晴らしいと言うほどでもないのだけれど、何となくこんな町に住んでみたいと思わせる魅力がある。

−松江の紹介に労力を使いすぎた。次も、強い印象の残る「城崎」なので、掲載は暫くおやすみになると思う。
| 臥牛蝦夷日記 | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
松江 1
3月31日(木) 雨のちくもり
出雲大社 8:49 →出雲 9:19
出雲   9:19 →松江 10:10
→”貮番館”→松江城→小泉八雲記念館→八雲旧宅→”八雲庵”(昼食)→武家屋敷→明々庵→普門院→”珈琲館”→月照寺→松江駅→(一畑電鉄)→古江YH

 訪ねた当時に感想を書いたメモが切れた。訪問先の羅列と旅の記念の写真だけが手元に残っている。訪問した場所の地図や観光地のHPをつきあわせながら、30年前の記憶を蘇らせる作業が始まる。
 おもに「さんいん旅ねっと」のお世話になりました。感謝。


 早朝我々は大社の町をあとにし、松江へと向かった。古代から、江戸−明治時代に戻る。
松江城を中心に松江の市街地をぐるっと巡る。《旅地図を大きく見たい方はこちら

 昨年の松本城から始まって、この年は姫路、岡山と規模の大きなお城を見て回ったせいか、天守閣自体にあまり記憶がない。当時のメモに『松江城趾のお堀の水の濁りが気持ちいいものではなかった。』との記載が残る。
■ 松江城

■ 北惣門橋

 お城の北にある小泉八雲記念館はちょっと風変わりな二階建ての建物。お隣りは八雲旧宅
■ 旧宅前にて

 夕食、そば屋「八雲庵」さんに入る。見たことのないメニューだったので「割子そば」を注文する。旅の記念にその土地でしか食せない物を食べるのがいい。
 さて、「割子そば」であるが、5段に重ねられた器と、薬味の盛られた皿、たれ・・・どう食べたらよいものか思案に暮れる。結局、お店の人に普通の食べ方を教わって、無事夕食をすませることができた。
■ 八雲庵

 明々庵・・・説明板を一読して「そっか」で通り過ぎた・・・記憶がある。
■ 明々庵

| 臥牛蝦夷日記 | 21:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
出雲2
 早速、賽銭を入れ、どうぞ良い人に巡り会えますようにと拝むのである。
 あまりにも有名で、出雲ではここしか見るところがないという社を後にして、YHに向かう。

 「出雲大社」は、東大寺の大仏殿より高い建物と言い伝えられていた。私が旅で訪れた頃にはまだ単なる昔物語でしかなかったことなのだが、発掘作業の結果として、相当の建物があったらしい柱跡の遺構が見つかり、以後、歴史的事実として認識されるようになった。
 一般的には、日本統一の課程で歴史からその存在を葬り去られた集団の鎮魂のため、巨大な建造物を創り上げたとの説が有力である。
 「何故」には、まぁ、納得するとして、「どうやって」には、尽きない「?」がわく。人力しかない時代である。今、作ろうとしても、想像に余るような巨大さである。やはり、国家をあげての事業でなければ、達成できない規模だと思うのだが、そのことが、事実として語り伝えられずに来たこともまた、不思議な気がする。
 古代も、面白い。


境内2

境内3

芸術的アングル■ 何となく芸術的アングルでしょ?お気に入りのショットです。
 ちょっと、ぼけてるけど・・・。
| 臥牛蝦夷日記 | 20:47 | comments(2) | trackbacks(0) |
| 1/1PAGES |