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修学旅行 2
 翌日は、奈良、明日香を見学し、吉野へ。東大寺(=奈良公園)、唐招提寺、薬師寺を巡る。薬師寺は前年から始まった金堂の改修作業中で、有名な薬師如来、脇侍にある日光菩薩(にっこうぼさつ)と月光菩薩(がっこうぼさつ)の3体は別棟に納められていた。 吉野は、神話期、壬申の乱、南北朝時代の著名な舞台ともなっている山深いところ。宿泊先は著名なところだったらしいが、歴史にも造形美にも深い知識のない高校生にはさしたる感慨もなく、一夜を過ごす。
 ('71〜'75金堂再建、'81西塔再建、中尊は薬師如来、脇侍に日光菩薩(にっこうぼさつ)と月光菩薩(がっこうぼさつ))
 
 第4日目、吉野から宇治平等院鳳凰堂を経て、比叡山延暦寺−山ばかりいってる感じもする−大津泊。宿泊先は、比叡山の麓で、琵琶湖が眺められるロケーションの宿であったが、「雄琴の灯りだ!」と興奮気味に指さすクラスメートの声に、発言の意味も分からずぼんやりと繁華街らしき灯りを眺めている私がいた。

 第5日目、彦根城を見学後、米原から新幹線で東京に。新幹線から富士の霊峰を眺められるのではないかと期待していたが、さっぱり見えない。周りに聞くと、さっきから見えてるとのこと。海側に座っていたせいもあったが、窓から天空を見上げるようにしないと富士の姿が現れなかった。想像を超える大きさに驚嘆する。夕刻、東京駅着。山手線で上野着。寝台列車に乗り込んで、帰路につく。行き客車寝台であったが、帰路は電車寝台。大きな違いは、通路が横にあるか中央にあるかだ。行きの時は混在していたが、帰りの時は不文律も出来上がり、自分の場所は決まっていたものの、夜更かし組と就寝組で車両が自然と分かれた。夜更かしをする者がたむろする車両は蒸し暑さが充満しているが、早々に眠りにつく者たちの車両は、冷え冷えとし、静まりかえった車内にはレールの規則的なリズムだけが響いていた。
 第6日目の朝を迎えて、連絡船で帰道。津軽海峡は荒れていた。
| 臥牛蝦夷日記 | 21:25 | comments(8) | trackbacks(0) |
修学旅行 1
臥牛蝦夷日記のベースとなるのは、高校の修学旅行である。で、ここで、高校時代を振り返ってみたい。

 高校の修学旅行は、1年から2年になる春休みだった。一般的な修学旅行のシーズンとは異なる時期であったが、どこに行っても、制服姿の団体行動の一団に出会った。女子校の一団と出会った時には、何故か、どこの学校の何年生かという情報が駆けめぐる。さすがに1年を終えたばかりの集団は私たちだけで、いかに可愛らしげな感じでも所詮はお姉様。この時期、1歳年上となると、人生の大先輩なわけで、お近づきになるような機会を持とうという気分にもならなかった。

 出かけた先は、京都、奈良、吉野。。。
 時期も変わっているが、京都、奈良は定番として、吉野まで足を伸ばすということは北海道の高校にしては珍しいものであった。
 1976年4月1日、8クラス総勢380人の旅となる。列車の座席の確保などが無理だったのだろう、2班に分かれての出発となった。札幌−函館を列車で4時間、青函連絡船が4時間、青森発の寝台列車に乗り込んで翌朝、京都着。正確には覚えてないが、20時間くらいの行程だったと思う。お決まりだが、寝台列車では一睡もしなかった。
 京都では、銀閣寺、清水寺、二条城、嵯峨野巡り・・・たぶんこのほかにもどこかに行った。観光貸切バス(国際興業だったと思う。)での点と点の移動だったから、全体像としての京都を知ることはなかった。寺ばかりの街のイメージが残っている。町屋や、四条河原町の大都会らしいビル群の存在を知ることになるのは'76旅を待つことになる。
 印象に残っているのは銀閣寺での庭の手入れ、特に筋目の入った白砂や月見台の造形に感じ入る。
 夜は、しばしの時間、お土産探索。寄宿後、同室の連中が持ち込んだウィスキーの小瓶をキャップに一人一杯で、回し飲み。昨夜は一睡もしていないので、枕投げの元気もなく、爆睡。
| 臥牛蝦夷日記 | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
プロローグ 2
 「どこかに出かけてみたいね」。その言葉は、他愛のない不満の代替用語でしかなかったが、二人の想いが一つの言葉で確認できたとき、希望に転換され、現実へと昇華した。
 冒険心や探求心に駆られた旅ではないので、旅先はどこでも良かった。だが、単調な毎日から逃げ出すこともなく、落第の恐怖に自主休講すら出来ないような品行方正な学生そのものの私たちには、見たことも行ったこともない場所にでかけようなどという無謀を冒すこともできなかった。結局、高校時代の修学旅行で訪れた地を再訪することに決まった。何のことはない、二人にとってこれまでの人生で唯一の旅行らしい旅行であったからだ。
 あの時、私たちは、日常からの逃避と未知への挑戦気分であった。修学旅行中特に感傷に浸るような出来事が発生したわけでもなかったが、「これは、センチメンタル・ジャーニーだ。」などと、訳のわからないことを口走ったりもした。松本伊代が微笑んだ。
| 臥牛蝦夷日記 | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
プロローグ 1
 「どこかに出かけてみたいね」
 どちらかともなく切り出したこの一言で、私たちの旅は始まった。
 講義のなかった日の昼さがり。この部屋の主がカリカリとコーヒーミルを回している。香ばしい香りが狭い4畳半の部屋に満ちあふれた。コンポからブルーノートが流れ、壁では彼のお気に入りのオードリー・ヘップバーンが微笑んでいた。
 彼とは、高校2年でクラスになってからのつきあいである。穏和な彼は、私の毒舌にも苦笑いで受け流すような性格だった。高校時代を過ごした街にある志望校に嫌われ、地方都市の単科大学に合格して、晴れて大学生になったとき、不幸にも彼は私と同じ道を歩んだ。お互いに講義のない時間には、喫茶店でマイルス・デービスを聴きながら漫画を読むか、私の下宿より大学の近くにある彼の部屋で時間つぶしをするのが常であった。
 高校時代には、大学生にさえなれば、束縛されない自由な時間が過ごせるものだと思いこんでた。実際、大学生となってみると、朝の8時半から夕方の5時まで講義が詰まっていて、受験勉強の頃と何ら変わらない束縛があった。むしろ、高校なら3時過ぎには授業が終わっていたので、束縛される時間は長くなった。大学生といえども、本分は勉学に勤しむべき存在なので、当たり前の生活といえばそれまでだが、一度描いた夢を「夢だったのだ。」の思い直すことも難しく、ある種の失意を感じた。
 地方都市の単科大学という環境もたぶんに影響していた。工業都市のせいもあるのだろうが、高校時代を過ごした札幌より娯楽、商業施設が少なく、刺激がなかった。都会の大学に通う学生すべてが満ち足りた学生生活を送っているとも思えないが、少なくても私たちはかなり単調で漫然とした学生生活に飽きていて、変化が欲しかった。
| 臥牛蝦夷日記 | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
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